新成人に贈る先輩の言葉


昭和57年(1982年)8月15日 成人式の記念品(アルバム)に掲載

前年度成人 二瓶晃一 (執筆当時20歳)

”成人”と言う言葉は不思議なものである。

 

 実は私は、“成人”と言う事がどんなものかわからない。私は昨年、“成人”という“称号”を頂いたが、一昨年と比べて特別変わった事はなかった。選挙は何もなかったし、酒も煙草もやらない私には「解禁」も何の意味もない。周囲の友人も何ら変化がない。まったく私は、気づかないうちに20歳になり、いつのまにか成人式と言う大層な儀式を通過してしまっていた。そんな成人と言う言葉を真剣に考えてみた事もなかった私に原稿依頼があり、それからあらためて20歳――成人と言う事について、私なりに考える事にしたのだ。

 

 成人――青年期に続き、心身の発育を終え、一人前となった者――広辞苑によれば、このように定義されている。確かに20歳を境に発育は終わる。心身両面の急激な成長が20歳前にはあったが、20歳以降はより安定した状態となる。20歳はその区切りを示す。

 

 また、生物の生活の基本は吸収と排泄である。人間の生活を純動物的に考えればまったくその通りだし、同様に、社会的生活の面でもまったく同じ事ではないだろうか。人間の社会的生活も“吸”と“吐”で成り立っている。そのちっぽけな呼吸が人間社会を構成し、少なからず社会に影響を与えていく。つまり、成人とは社会の一細胞体としての仲間入りを示し、心身が共に安定期に入る20歳が、構成員としての承認の時期であるようだ。

 

 無意識のうちに成人となった私はまったく惨めなものである。自分の一つ一つの“息”がどんな影響を及ぼすかなど、考えてもみなかったからである。今年成人を向える諸君はどうであろうか?

 

 社会生活の中での個人の呼吸の重大さを考えると、社会は個人が吸収したものをどのように生かすかで変化し、その変わった社会から個人が多くのものを吸収する。そんなサイクルの中で、人は思春期とは違った成長を繰り返す。人間の成長は、社会とのかかわりの中で第二段階を迎える。

 

 だが、往々にして人は成長する権利を20歳以降、放棄しているようだ。20歳以降の成長はほとんど静かに進行していく。ともすれば自分の成長を見落としがちであるが、それがより一層の成長の妨げとなる。成人となる時から、いつも自分を見つめていく「目」が必要となるだろう。

 

 以上のような事は、もちろん私の経験から出たものではない。今まで成人という事など考えもしなかった者が、これから経験するであろう事を、単に頭の中で考えたに過ぎない。随分“オジン”のような事を書いてしまったが、私はまだ20歳である。これからゆっくりと、自分の“息”の重さと、自分の成長の過程を見つめていこうと、密かに考えている一人なのである。