我が心のうちなる小野高


平成4年(1992年)10月20日 OPINION掲載

二瓶 晃一 (執筆当時30歳)

 私の母校・福島県立小野高等学校が今年創立50周年をむかえる。 今はどうか知らないが、私が高校受験をする 頃は「超四流校」のレッテルが貼られていて『ど うして他の高校にしないんだ』などと中学の 先生に(進路指導で)言われて、くってかかった事などもあっ た。尋常小学校しか出ていない父をのぞいて 家族がみなこの地元の高校の出身であった事 もあるが、私にとってふるさと「小野」の名 をつけたこの高校はやはり特別な存在だった のだ。 

 

磐城連峰聳周囲

夏井清川奔流涯

有校曰小野高校

男女一千来学茲 

 

質実剛健為校訓

公正敬愛是堅持

勤検尚労吾郷俗

山水秀麗亦有之

 

俊傑古来風土産

諸子修学当及時

人材育成方今急

  須期邦家棟梁材 

 

 

 多分、ほとんどの人がその存在さえ忘れて いるだろうこの漢詩の校歌。これを裏表紙に 書いた数学のノートを埃だらけの本棚から見 つけると、本当に懐かしさでいっぱいにな る。


 昨年、私の同級生の結婚披露宴の席で久々 に高校時代の音楽の先生に会った。ちょうど 私の兄と同じくらいの年令の彼女は、先生と いうよりは友達くらいの感覚で気軽に話がで きる人だ。お互いに「懐かしい」を連発しな がら話がはずんだがその会話の中で「小野高

 って今すごくいい学校になったんだってね」 という話題になった。なったと言うことは昔 は違ったという事なので当時の高校生として はまったく苦笑いするしかないのだが、なる ほど現役の高校の先生から口に出るのだから 「まんざら噂は嘘ではなかったのだ」と 私は妙に嬉しくなった。が、それと同時にち ょっぴり心配にもなった。それは、良くなっ たと言う事が「四流から三流になったというだ けの事じゃないだろうな」と、いう心配だった


 高校を卒業してから小野高とかかわる事は ほとんどなくなった。高校生とのサッカーの 試合でグランドに出向くくらいなので高校が どんなふうに良くなったのか確かめるすべも ないが在学中から私が感じていた事がある。  

 

 高校に入学した時一番驚いたのは先生達の 偏差値的思考だった。中学の時にも多少感じ た事はあったが高校ではそれが大変顕著だっ た。大学というものが全国的にきっぱりと偏 差値順位にならんでいて、それを受験する為 のファームとして高校が捉えられているから だろうと当時の私は思った。  

 

 進学校になどなりえない高校がなぜそんな 思考で学校を捉えているのだろう。私にはそ れが一番不思議だった。「小野高には小野高 の良さがあるのに」と私は思った。成績は良 くないが頭のいいやつはたくさんいた。それ をのばす努力が、いや、そういった能力を見 つけようとする姿勢に欠けているのだ。  

 

 3年前にとある講演会で有名進学高校の元教 師の方の話を聞いた。「人間には記憶型人間 と想像型人間とがいる」その人はこう言った。「 その子がどちらかと言えば記憶型だなと思っ たら、すこしでも良い高校に入れて少しでも 良い大学にいれて、そして少しでも良い会社 に入れたら良いでしょう」彼はこう言いなが らこれが現在の学校教育のシステムだとも言 った。

 

「でもその子が想像型だなと思ったら 成績が悪くても怒らないで下さい。そしてそ の子がやがて30歳を過ぎて社会で評価され てくる時を暖かく見守ってやって下さい」講 演会に出席した方々はみな感激して帰った。


 

 小野高だからこそやれる事がある。そう 私は思う。例えば英語などは、進学校でやっ ている受験英語を簡単にしてやるのではなく 、英会話をみっちりやるとか、バイクや自動 車の運転の授業をするとか、偏差値型でない 教育に挑戦してほしい。そうなった時、磐城 高校や安積高校とは違った、在校する生徒や そこに勤務する教師、そしてその地域が誇り をもてる一流校になっていくのだと思う。そ ういうすばらしい可能性を小野高は秘めてい ると思う。   

 

 私個人の事を言えば、小野高を卒業して から稼業に従事して大学にはいかなかった。 大学に行かなかった事で経験できなかった事 もたくさんあったが、当時、そこそこの成績 の高校生が大学に行かないというのは、ある 種の特別の事だったから、今ふりかえってみる と逆に行かなかった事によって数多くの貴重 経験をしてきたように思う。

       、

  偏差値から離れて、ふるさとで過ごしてき た十代後半から二十代前半の頃。ふるさとが、 ふるさとのこの「まち」こそが私のUniver"C"ityだったのだ。