春-----教育を考える


平成4年(1992年)4月20日 OPINION掲載

二瓶 晃一 (執筆当時30歳)

 春が来た。私の一番好きな季節である。木 々が生命を取り戻し、土や草の匂いが恋しく なる。そして、若者達が新しい夢に駆け出し て行く季節。新しい制服に身を包んだ新入生 を街で見かけると、何かしら心がウキウキし てしまうのはきっと私だけではないだろう。 思わず懐かしい学生生活や学校の事を考えて  しまう。春。そんな春だから今、教育を考えたい、そう思いながらペンを取った。


 昨年の11月にドイツ人の若者達が研修旅 行で小野町を訪れホームステイした。その時 開催された「国際フォーラム」の席上たまた ま週休二日制にからむ教育の問題が話題とな り、教育委員会の担当者から「週休二日制と なれば(親が週休二日制でない場合が多いの で)少年非行が増えると予測され問題となっ ている」と言う主旨の説明があった。その時 ドイツ人から一斉に手があがった。「日本の子供達は自分達だけで過ごす事がないのか?」 と言う疑問だった。  

 

 週休二日制の問題に関してはそれ自体に 様々な問題を含むが、それ以上に私は「ああ、 我々はなんて長い間子供達の教育というもの を一つの箱の中で行なってきたんだろう」と 言う一種の驚きとも反省とも言えぬ思いを感 じた。今、学校という箱が一週間のうちにたった一日開けられるだけで、まるでパンドラ の箱を開けてしまう様に大騒ぎをしている。  

 

 教育というものは確かに難しく、根気がい るものだ。それゆえに大多数の地域の人々が 教育というものからかけ離れた場所にいると いうのが現状である。 「学校」という狭い箱の中で教育を行なうの ではなく、各々の家庭も含めた大きな地域社会のなかで教育をとらえ、「地域で子供達を 育ててゆく」といった発想が今必要ではない か、私はそう通切に感じている。

 

 そのために「学校教育と社会教育の垣根を取り払う事はできないだろうか?」と、常々私 は考えている。同時に、学校体育と社会体育 も一本化できたらと思う。具体的には、教育 を地域化するその第一段階として学校のクラ ブを廃止したらどうだろう。その替りとして 学校の教師や町の社会教育・体育関係者そし て関心のある人々が集まって大きな「クラブ」 をつくる。その中にはいろいろなコ-スがあ り、音楽、スポ-ツ、文化などの様々なジャ ンルの活動ができ、その中から2~3つのコ -スを自由に選択し参加できるようにする。 野球やサッカ-やバレ-などの人気スポ-ツ はもとより、自転車やゴルフがあってもいいし、 ブラスバンドや合唱などの代表的な文化クラ ブなどの他に郷土史研究や地方政治研究など ユニ-クなコ-スがあっても良いだろう。

 

 そ して重要な事は、学校の先生方にも「地域社 会の一員」として運営、活動に参加してもら うことだ。組織上の問題や時間の設定など細 い課題はあるが、家庭みんなで「クラブ」へで かけてゆき、お父さんは〇〇コ-ス、お母さ んは☓☓コ-ス、子供達は△△コ-スとそれ ぞれ好きなコ-スに参加し、帰り道にそれぞ れの活動の話などができればすばらしい。 少なくとも青少年たちを地域社会の一員とし て迎へ、育ててゆく事によって地域を構成する人々の認識が少しずつかわってゆくのでは ないか。そしてそれは次の段階である抜本的 な教育の改革を行なう上での大きな役割をは たしてゆくのではないかと思う。


 教育という事を考える時、いつも私の脳裏 に浮かぶ一つの記憶がある。それは子供達に サッカ-を教えていた頃の思い出である。もう3~4年位前になるが、子供達にせがまれ て指導に行き、少年チ-ム(スポーツ少年団)をつくった。毎日超 多忙な日々の連続だった。初めてグランドで 子供達に囲まれた時の一種のカルチャ-ショ ック。子供達は自分の想像した以上にエネル ギッシュであり、そして大人であり、輝いてい た。すべての事が楽しかった。

 

  私がその頃思っていた事、それは「子供達は遠くない未来に私達の仲間になる」とい う事だった。だから私は「教える」と言うよ りは「未来の仲間達といっしょに過ごしてい る」と言う感覚の方が強かった。その「遠く ない未来」は、ほんとうに駆け足でやってき て当時の子供達は今、私達と一緒にボールを蹴 っている。私達の「仲間」となった彼らと フィールドに立つ時、あの超多忙な日々を過 ごした事が『ほんとうに良かった』と心から 思えてくるのだ。

 

 


※パンドラの箱

 

 ギリシャ神話でゼウスの神が人類最初の女・パンドラに与えた箱。開けてはいけないと言 う禁を犯して開けてみると人間の色々な悪が 地上に飛び出し、最後に希望だけが残ったと 云う。